<2012年2月1日 改訂>
R3は変動,変化する実体を記述することをその目的の一つであるとしてきた.変動する実体とは何か.実体とよぶものは実世界の要素である.しかし,前稿で,実世界自体はどんな能知に対してもその所知の所与面として不変であるとした.能知は参照基準点(point of reference)であるとみなせ,その因子として時間を考えることが出来る,とも述べた.とすると,「変動する実体」という言い回しは一見,自己矛盾をはらむことになる.より正確には,実体を所知の要素とし,その所知の所識面が変動する,つまり能知(参照基準点)のパラメータを持つ,ということである.参照基準点が時間(あるいは他の要因)が変わることによって変動するために,実体の所識面(つまり実体の認識結果)が変動する(ように見える)ということである.実体の所与面は不変であり,その覚知が実体のイデアたるゆえんとなる.しかしこの考え方も正確ではない.
前稿で,能知,あるいは参照基準点には,「だれが,いつ,どこで,なぜ,どのように」の要因を持つと述べた.「だれが」は,認識者,『いつ』は時間,「どこで」は認識者のいる場所,「なぜ」は,認識者の動機と関心,『どのように』は観察手段などである.「これに「何を」を追加すれば,5W4Hになるが,『何を』は所知であるから,5W4Hはノエシスの要因をいみじくも表している.
参照基準点のどれかが変わればそれによって対象とする所知の所識が変わる.つまり認識結果が変わる.それをもって『実体は変動する』といっているのである.しかし,4W1Hについてすべて議論するのは複雑なので,以下では,主として時変動を考えることにする.
普通の大人ならば,夕日は沈んで一旦見えなくなるが翌日昇る朝日はそれと同じ太陽だ,と考える,幼児も,母親がいないいないばーをして一旦見えなくなっても同じ母親を見続けていると認識する(学習する?).そのとき,実世界の実体(所与)としての太陽と母親は不変であり,時間と共に変化するのは認識者(能知)である自分のほうで,その自分からみると太陽あるいは母親が変化するように見える(所識)のだ,と考えていることになる.つまり誰しもが(ほとんど無意識のうちに)思考のコペルニクス的転回を行っている.しかし,はたして所与は真に不変なのだろうか.このように考えるのは,所与(イデア)のそれこそ物象化である.イデア(あるいは空)は語れないものである.それが「不変」,あるいは反対に「可変」だというのは,語っていることになる.実は,所与である実世界における不変性,唯一性と呼んでいるものは,認識行為が定めるものであってそれ以上のものではない.すなわち,朝日と夕日が同じ太陽だと考えるか別のものと考えるのかは能知によるものであって,絶対的なものではない(前稿のノエマ射 ξ(r) は認識者 r に依存する).しかし,時間 t の自分を st として, st と st' どちらも同一の能知の要素とする,つまり 時間の異なる自分を共同主観性を持つものとすれば(自己分裂しない限りそうであろう),この二人?の認識は一致して,太陽が同一とするかどうかの見解は同じになる.同一と考えるとき,認識のコペルニクス的転回をおこしていて,所与としての太陽が不変であると認識することになる.一般に,複数の要素からなる能知による認識では,個人,時間,空間,まして,動機や観察手段などを超えて(つまり,共同主観性を持つことにより),実世界での実体の不変性について一致する.実際,対象実世界の不変性を求める科学は,自ら定めた検証作業により,共同主観を拡大し,堅固にする営為であるといえる.なぜなら,不変性の認識こそすべての推論の基礎となるからである.
こうして,共同主観によって不変であると認識される実世界の一要素が『実体』とよぶものである.R3ではそれをentityと呼び,その識別子としてentity_idまたはrun_idを与える.
さて,では実体の変動とはなにか.「実体」そのもの,という不変なものが想定されて,そのうえにたってはじめて議論することが出来る.
まず,すでの認識されている実体の変化は,その状態の変化であると見なせる.状態は実体の属性であるから,属性射が変動すると考えるのである.
次に,実体が「生じる,誕生する」とはどういうことか.逆に「消える,消滅する」とは?実体は所与側での不変性が認識されているという前提があるから,その所識側に現れるか,あるいは,消えるか,ということに相当すると考える.つまり,認識されるようになったか,認識されなくなったか,ということである.
圏論ではこのような射の変更を作用actionと呼ぶ.その詳細な議論については後述する.
以下,McTaggartの時間の非実在性について.
J. M. E. McTaggartはおよそ100年前に時間の非実在性について論じた(The Unreality of Time).以降,現在でもそれについてさまざまな議論が続いている.McTaggartは「ある時間 T に起きる事象は(時間の推移と共に)未来であり,現在であり,かつ過去である.同一物に相反する述語が付けられるのは矛盾する.したがって時間は非実在である」というような論法を立てている.上述の立場に立ってこの論法を見直してみよう.時間 T というのは,たとえば,「大地震が起きたとき」であり,それは(日本時間で)2011.3.11 14:46のように識別子が付けられ,それ自体は不変である.つまり,認識対象となる「時間」は,能知によらず共同主観性によって不変であるとされる.それに対し,(認識対象としての)「現在」をNowと表したとき,Now は能知の因子である時間 t(これは先の時間とは違うことに注意)に依存するから,Now(t)と表すことにする.T における事象が「未来である」とは T > Now(t) ,「現在である」とは T = Now(t) ,「過去である」とは T < Now(t) であるから,これらは決して相反する述語(形容)ではない.したがってなんら矛盾を起こさないではないか,というのが常識的な見方であろう.
McTaggartはこの論法について,時間の説明に時間を使っているから悪循環論法である,といって拒否する.しかし,ここで,T は認識対象としての「時間」であり,t は能知圏で対象とする「時間」であって,両者は別物であるため,この論駁は成り立たない.しかし,では能知の t という「時間」とは何なのか,これはカントが先験的(a priori)カテゴリとした認識に先立つ概念装置であり,実際,われわれの立場から見ても認識対象とはされない.つまり所知の所与側の世界に入らない.その意味で,時間 t は確かに実在とは認められないという意味で「非実在」である.McTaggart自身,論文のなかでそのような示唆を与えている.
McTaggartは時間の特性についても一つ重要な論点をあげている.未来(の出来事)はいつかは現在になり,過去になるが,過去はずっと過去であって,その意味で未来とも現在とも異なる.その区別を与えるためには順序の向きが与えられなければならない.時間の比較として大小比較(”>")だけでは三者の順序の向き(昇順か降順か)が与えらていない.したがってこの常識的論法では時間の特性を示すものとして不十分だ,というのである.これは認知者のもつ記憶機能に関係する.認知者を情報システムとすれば,記録機能である.認識された事象(将来ならば,その予測または計画)をその事象の起きた順にリストにする(記録する)ことにより,この時間の向きの特性が与えられる.これがMcTaggartのいうC系列である.ちなみに,「未来,現在,過去」の区分系列をA系列,昇順か降順かが与えられない相互比較だけの系列をB系列とよんでいて,A系列とBないしC系列とが組み合わされてはじめて時間の特性が表現されるが,A系列が矛盾を含むので時間は非実在であるというのが(拙見による)McTaggart論法である.しかし,本当に非実在とするべきは能知の時間であって,観測対象としての事象にともなう時間ではないことは上述の通り.
同じ能知の因子である「空間(場所)」についても同様の議論が出来る.McTaggart流に言えば,「ある事象が起きる場所 P が(能知が移動することによって)前にあり,あるいはここにあり,あるいは後ろにある,というように,同一物に相反する述語が付けられるから,場所は非実在である」となってしまうが,時間についてと同様の議論になる.ここで真に非実在とするべきは,観測対象としての場所ではなく,能知の場所(認識者がいる場所)である.これもカントがアプリオリなカテゴリとしたものである.
認識対象としての事象に伴う時間や場所が非実在であるとしたら,物理学はもちろん,すべての科学が成り立たないことになる.McTaggartもそこまで言うつもりはなかっただろう.
R3では,事象の時間(一般には巾があるduration)と場所をその属性としてしているが,これはもちろん認識対象としての時間と場所である.またその事象を事実とすれば,事実グラフの属性値としてデータベースに記録される.時間に関してみれば,それはC系列を表すことになる.
多くの情報システムでは,事実が変化するとそれをそれまでの記録に上書きして記録してしまう.たとえばメーリングリスト.部署のメーリングリストを作って使用する組織が多いと思うが,人事異動などでそのメンバーが変わるとリストの記録をそれに合わせて変えてしまい,それまでのものは残さない.ウェブのホームページの変更もそういうものが圧倒的に多いのではないだろうか(実は,このブログも同じ).これは,A系列のなかの現在のみで生きるいわば刹那主義である.こうして日々刻々,膨大な情報が「現在」とともに流れ去っていく.R3は現代情報システムのそういう刹那主義に警鐘をならすものである.
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